創立二十五周年記念公演 幻花 甦える写し絵と影絵の世界

1993年2月26・27日芝ABC会館ホール
芸術文化振興基金助成事業
主催 ■ 劇団みんわ座

スタッフ

総指揮 ■ 山形文雄
美術構成 ■ 田中佑子
制作 ■ 山形重和 山形真理子 橋本康男 柴田まゆみ 伊藤博志
CG処理 ■ 川端孝(㈱エム・シー・ビジョンズ)
照明 ■ 後藤義夫(㈲ステージ・アイ)
写し絵操作 ■ 牧村守倫 仲亀達哉 田中佑子 相原美奈子 高尾寿彦 星野義明 吉見薫 小坂勝美
照明操作 ■ 久川美幸
音響操作 ■ 沢利男
指導・協力 ■ 若松若太夫 小林源次郎 芝綾子 山本慶一 小花波瓶六
写し絵資料提供 ■
若松若太夫 山本慶一 島崎敏夫 大宮市立博物館 奥多摩郷土資料館 東京都立中央図書館 大阪市立博物館 仙台市立博物館 リチャード・バルサー

演目

  • 第一部 「闇にかがやく人形たち」
  • 第二部 写し絵芝居「陰火の森」

写し絵興業のご挨拶

劇団みんわ座代表 山形文雄

 雑誌に、古い木箱の写真が有る。説明書に写し絵とあり、風呂(幻灯器)へガラスに書いた絵を入れて写す。アニメーション映画の先駆けをなした、とあった。
 写し絵という言葉は知っていたが、本物をみた事が無い。写真を見るのもそのときが初めてであった。今から十三年前の事である。
 影絵芝居をしている私に、何かの関わりがありそうだ。調べてみると、幻灯器は江戸時代、影絵灯籠と呼ばれていたらしい。おまけに、絵を動かす細工をしてあるのが分かった。
 影絵の舞台では現在、スライドは多様な表現を可能にする大事な照明器具である。しかし、あの小さな絵に、動きを加える発想は今までに無い事だった。それが、享和三年頃から、寄席の芝居でやられていたというのである。衝撃であった。
いかに伝統と断絶し、知恵を学んでこなかったか。遅ればせにでもと、本格的な調査を始めたのはそれからである。
 先人がいた。武蔵野に棲まれた小林源次郎氏である。関東を中心にして集められた膨大な資料は、私家版となり、さらに「写し絵」(中央大学出版部)となって発刊された。
 関西からの西の資料は、倉敷に棲まれた山本慶一氏によってまとめられた。山本氏もまた図らずも、私家版と「江戸の影絵遊び」(草思社刊)の著書を持つ。
 私たちは、小林源次郎、山本慶一両氏から多くの資料の提供を受け、風呂を操作する心構えを学んだ。本公演の協力者としてお名前を頂いた。

 写し絵は、大正末をもって滅んでしまったと云ってよい。
 全国を回り、調査を進めるなかで分かったのは、風呂や種板がそろっていて、昔のままで上演できそうなのは稀であった。大正末まで演じられていたらしいのに、器具の喪失は甚だしいのである。
 名残の風呂や、種板が、祖父までに演じていたという個人宅や、博物館に眠っている。私たちからすると、写し絵の人形は、明かりが入り、闇にかがやいてこそ生きる。生き返らせてみたくなる。
 写し絵は、今日的な目で見ると、動きが乏しく魅力がないかに見える。しかし復元して思うのに、写し絵の良さはそこにはない。人形のぎりぎりまで押さえた動きと、一転した飛躍にこそ魅力が有るのである。動かぬ空間にこそ、説教節が入り客の想像力が一緒になって劇を高めていく素地が有る。現代の説明過剰にさえみえる舞台芸術の中で、それはまた、振り返る原点でもあるかのように見える。目新しさを追うあまり忘れてしまった「写し絵」を、現代の視点で見つめ直したいのです。

劇団25周年記念公演に寄せて・・・

㈳日本児童演劇協会会長 栗原一登

 <影絵芝居団 みんわ座>は、その成り立ちに他の劇団に見られない独自性を持っている。それは兄弟二人が劇団組織の中核になっていることである。兄の山形文雄さんは、中心的存在であるが田中佑子さんと共に芸術創造面を担当し、弟の重和さんが経営面を支えている。
 その結合の堅さと誠実さが劇団の仕事を、より充実したものにしている。
 これまでにも「白いりゅう黒いりゅう」「雨月物語」「火の鳥」等の、世評に高い作品を生み出して、今や影絵劇に止まらず、児童舞台芸術界に確固たる地位を築いている。
 今回の、二十五周年記念公演の「幻花」は、この劇団の独自性を最も明確に発揮した公演だと思う。
 ひとつには、創立二十五周年という節目の提示である。現在日本には百に近い児童劇団がある。その中で二十年以上の歴史を持つことは、プロの劇団としてその活動がより高い評価を受けてきた証拠である。
 まして<みんわ座>は、四分の一世紀を生き抜いてきたのである。経営基盤の脆弱な児童劇界にあって、これは称賛に値するものである。
 さらに、記念上演のテーマとして「写し絵」を掲げたことも注目される。
 それはこの劇団が多年追求してきた「写し絵」の独自性を開明し、その復元を通して、影絵の魅力を問いかける試みと思われる。
 それだけでなく、そこから「現代的表現の可能性」を追求したいとする姿勢である。過去の存在として閉じ込められた世界から、未来志向の何物かを発見したいとする欲求の旺盛さに目を見張る。
 ひとりの観客としては、少年時代に、「幻燈」、「のそきからくり」、「写し絵」から享けたおどろおどろした妖しさ、甘美さ、昂りを(たかぶり)を、どのように<みんわ座>が甦らせてくれるか、その点だけでも私は、この記念公演を楽しみにしている。

写し絵讃

早稲田大学名誉教授 郡司正勝

 戦後、まだ荒廃の気分が残っていた昭和二十五年の重陽の節句に、武蔵野に住んでおられた小林源次郎氏が、ご自宅で、写し絵の研究会を催された。
 いろいろ研究の末に復元された江戸 写し絵芸術は、美事に闇の花を開き、まず三番叟の予祝の踊に始まる。尖如として鼻が伸び、鈴とともに、鼻がひょいひょいと上下する。それは他の三番叟には見られぬ芸当を披露する。次に梅の枯枝に花が咲き、豆腐買の小僧が一本足の傘の化け物に変わる。美人が振り向くと、恐ろしい化け物となる。そして葛の葉や小栗判官の説教節によって古き物語が、遠い世界へ導いてくれる。
 二台の風呂(幻燈器)を使って、仕掛によって写し出される動く極彩色の映像の世界は、およそ紙芝居のような幼稚なものではない。その動く間といい、語りといい、これに鳴物が入ったら、それこそ劇としての技倆(ぎりょう)を要するという点でも、立派な独立した映像芸能で、インドネシアのワヤン・クリとはまたちがった江戸前の芸術であったのである。
 幻燈の魅力はやがて活動写真になり、映画になって発開した流れは、日本には日本の独自性が働いていたというべきであろう。

写し絵公演に寄せて

永六輔

 「写し絵」を、またやろうという人たちが、久し振りにでてきた。
 これはありがたい事です。
 写し絵は、以前あちこちで観る事ができました。東京、八王子、兵庫、倉敷等々、日本各地にそれはありました。でも、僕の世代では、各地にそれぞれの上演が僅かにあっただけです。
それが今回、各地のものが一緒に観られるとなると、まずそれだけでも意味があると思いますし、観る側としてはありがたい事です。
 写し絵の「風呂」(幻灯器)や「種板」(映写原版)は昔、お金持ちで洒落た家には結構あったもののようです。
 しかし現在では、上方落語の桂米朝さんのところで、桂南天さんのものが時々演じられている程度になっています。そしてここでも、光源は今や燈心ではなく、電気です。
 今回のみんわ座さんの公演でも、立派な電気の「風呂」が使われるようですが、本当は昔のままのアブラの光源のものを観てみたいと思っているのです。
 写し絵が誕生した時代の、江戸の長屋の庶民の暮らしを想像してみて下さい。灯りは今とくらべるべくもなく暗い。色にしても、幕府の制限もあって、長屋には色などないと言ってもいいくらいです。
 写し絵の光源は、行燈と同じアブラの燈心です。スクリーンも、畳一畳もない和紙です。
 しかし色もない、灯りも暗い庶民の生活の中で、その闇にボーッと灯る火がどれほどの暖かさだったでしょう。その光を光源として、ガラス絵の種板から色が浮かびでてくるすごさ、それがどんなにいいもので、どんなに夢見心地だったでしょうか。
 庶民が色を持った「写し絵」が、どれほどの楽しみだったかが、想像されます。
 もちろん当時の事ですから、レンズもきちんとしたものである筈がありません。種板のガラス絵も、主に染料で描かれています。光源もアブラですから、赤っぽい映像ですし、輪郭もぼやけた渗んだものです。
 ですがそれがまた、面白いのです。なかなかオツなものなのです。
 もっともこれを劇場で観るには、現在の消防法の問題が出てきます。本火を使うのがとても難しいとか、非常等の灯りを消して真の暗転にする事ができないとかの。バカバカしい壁がある訳です。
 それと、今の私たちは豊かな色の中で暮らしていますし、その観客に劇場で観てもらうには、今回の公演のように、スクリーンも大きくして、光源も電気で強くするしかないのかも知れません。
 それでもやはり、昔ながらの方法の、昔ながらの写し絵も見せてほしいと思うのです。
 今回の公演を端緒にして、みんわ座さんに期待したいのは、そのことです。それにはスクリーンにする和紙をどんなものにすべきかも課題ですし、光源をどれだけアブラの燈心に近づけてくれるか、その技術的な苦労をして貰いたいと思います。

父 小林源次郎の仕事

芝綾子

 去年の暮れ、九十五歳の誕生日をまじかにして、父は他界しました。
 父の死という一つの区切りを迎えて、「写し絵」とのかかわりを振り返ってみると、感慨無量のものがあります。
 器材の面で云えば、初めの頃はテープレコーダーもなく、手で記録するよりないので、父と二人で聞き漏らしのない様にメモをしました。そのうちにソニーの前身、「東通工」で家庭用のテープレコーダーが売り出されたので、当時の月給一ヶ月分位をはたいて購入し、重たい機械を持って出歩きました。
 初めの頃は、三十分でテープを裏返さねばならず、その間操作に一分近くかかるため音が途絶えるので、残量を見乍らやりくりをしました。
 フィルムも感度が悪く、しかも簡単に入手できなくて、父も苦労しました。八ミリ映画とスライドで記録するつもりが、どちらも機能しなくて、本を書く事になってしまったのです。
これまで父について歩いた経験からしますと、あなたが、風呂を昔のままに再現したいと言うお話も、大変うれしく思います。一見昔のままにそっくり真似して作る事は馬鹿馬鹿しく思われるかもしれませんが、過日、調布市で文化財に指定した「写し絵」の道具の中で、「風呂」だけレプリカを作りたいと、持ち主の承諾を取りに行って、持ち主と共に分解してその作り方を調べた時、修理、手入れ迄考慮して作られていた先人の知恵に驚嘆したという話を聞きました。
 あの道具は、あの方法に依るものとしては、改良に、改良を加え、頂点に達して、洗練されたものと言って、良いと思います。ですから見た目では原始的に見えるものが、その道具を使って実演するという事を大前提とした時、それ等がいかに有効に効果を上げる事が出来るかは、扱った者が一番実感している処です。
 風呂は原則として脇に抱えるか、胸又は腹に当てる様にして、片手で固定し、もう一方の手で種板を操作するという事が基本になっているので、持ち易く、操作がし易い作りということが、大きな要素となっています。
 それには軽い、光源の熱に強い、狂いにくい、手で持った時すべりにくいという、すべてを最も満たすものとして、桐材が主に使われた事は納得のいく事です。
 映写レンズも写真機の様に、くり出し式より伸張式のがたがたしたものが、瞬時に片手で調整できて便利です。

 あなたから手紙を頂き、父の蒔いた種があちこちで芽を出し始めた様な、将に春がはじまろうとする今の季節を象徴する様な文面を拝見し、父の仕事が無駄でなかったと言う事をしみじみ感じております。
 当日のご盛況をお祈りいたします。

小林源次郎氏が病気で倒れられた後、手紙で技術の指導を受けていた田中佑子への返信から、芝綾子さんの了解の元に引用しました。