オランダから写し絵と幻灯機がやってくる! おもしろ光のサーカス

200933141 こどもの城
主催 こどもの城(渋谷区)
協賛 在日本オランダ大使館
Michi Travel
Dutch Fund for the Performing Arts

出演

劇団ミュージスクープ(Musiscoop・オランダ)
劇団みんわ座(友情出演)

演目

  • 「ジャイアント・ライト・サーカス」(Groot Licht Circus・マジックランタン・パフォーマンス)
  • 「だるま夜話」(江戸 写し絵)

イダ・ローマン(Ida Lohman)さんの紹介

アムステルダムのアーティスト、イダ・ローマン(1961-2007)、オランダ・ユトレヒト生まれ。2004年に海を渡った女性アーティスト。日本公演で「輪」が完成。1994年「ローマ賞」を受賞。ミュージスコープのリーダー、全体概念、幻燈のアニメーション。

幻灯文化・日蘭に架け橋

200917日 茨城新聞にて掲載

 鎖国時代の日本に西洋の光を注ぎ続けた唯一の国オランダ。アニメの元祖ともいえるマジックランタン(幻灯)も海を越え、長崎にやってきた。重い映写機を日本人は小さな木箱にし、弁慶やだるまがスクリーンを飛び回る「写し絵」に変えた。約二百年後、一人のオランダ女性が来日。江戸の技術を学んで童話風の現代アートを作り上げた。日蘭通商四百年の今年、日本公演が実現する。

オランダ女性 故イダ・ローマンさん 現代アートに復活

 「私に写し絵を教えてくれますか」。「劇団みんわ座」 (東京)代表の山形文雄さん(七一)に約五年前、英語のメールが届いた。山形さんは古い器材や文献を集めて江戸の写し絵をよみがえらせ、各地で公演をしていた。
 差出人はオランダの女性アーティスト、イダ・ローマンさん。欧州各地に出回ったみんわ座の英国公演の映像を目にして連絡してきたらしい。「オランダは写し絵のふるさと。恩返しみたいなもんですよ」。山形さんは快諾した。

▽たった1人で

 二〇〇四年七月、イダさんはたった一人で来日した。日本語は話せず、英語も不得手。長野県伊那市で劇団員らと合宿し、身ぶり手ぶりで映写機の仕組みや操作を教わった。
 「すごく軽いし熱くならないので手で持てる。パントマイムと競演させてみたい」。武蔵野美大講師の松本夏樹さん(五六)とは「最新機器を使えばどんな映像でもつくれるが、それでは芸術が機械に依存してしまう」と語り合った。一週間後、近くのバス停で日本のみんなと別れた。「山登りが楽しみ。オランダは山がないから」。リュックを背負った彼女を見送ったのが最後になった。

▽ビデオから幻灯ヘ

 イダさんは一九六一年、ユトレヒト生まれ。家具職人などをした後、二十六歳で芸大へ。九四年、国際的登竜門として知られる「ローマ賞」を受け、ビデオアーティストとして認められた。三人のおばたちが嫁入り道具のたんすの前に立ち、中身を淡々と説明するだけのビデオ作品。しかしその中に、それぞれの長い人生がにじんでいる。「やることがいつも新鮮。幻灯は彼女に合う媒体だった」と、アーティスト仲間ヤレ・ストーケルさん(四〇)。
 二〇〇〇年、中米キュラソー島で子ども向けの幻灯パフォーマンスをした。キャンディーの包み紙で作った小さな人形がスクリーンで大きくなって動き回る。大喜びする子どもたちに、もっとダイナミックなものを求めるようになった。

▽残された時間

「飛ぶようにして日本に行ったのは理由があるんです」。オランダの港町ハーグのカフェで、妹のマリエットさん(四三)が話しだした。「姉は〇二年にがんの手術を受けた。一度は治ったが、残された時間が少ないことを知っていました」日本から帰り、劇団「ミユージスコープ」を立ち上げた。
 軽い木製の幻灯を駆使した新作では、チューバやトロンボーンの生演奏に合わせ、かわいいゾウやアシカが動き回る。公演は約二百回。アムステルダムの劇場館長らは「廃れていたオランダの幻灯を現代アートとしてよみがえらせた」と功績をたたえる。
 〇七年九月、横になることの多くなった彼女を仲間たちがアムステルダム郊外に連れ出し、運河で船遊びをした。毛布をかぶってボートに横たわる写真の中で彼女は穏やかに笑っている。二月後、静かに恩を引き取った。四十六歳だった。「日本で上演できれば文化の輪が一回りしてまた一つにつながる」。何度もそう話しでいた。その思いは仲間が引き継ぐ。「見る者と演じる者が双方向でつながり合う。それが生涯を通したイダのテーマだった」と大学の友人は語った。彼女の残した幻灯パフォーマンス「グレート・ライト・サーカス」が日本にやってくる。

遺志継ぎ日本公演へ


日本で独自の進化 残像使ったアニメの祖先

 マジックランタンはスライド映写機の一種で、十七世紀後半にオランダの科学者ホイヘンスが発明したとの説が有力だ。
 ガラス板に描いた風景をスクリーンに映し、色や映像を重ね合わせて情景の変化を楽しんだ。亡霊などを見せる魔術的なショーにも使われた。
 十八世紀後半に日本へ。安永八(一七七九)年には大坂で興行として成立、江戸に伝わり写し絵と呼ばれた。日本では「風呂」と呼ばれる、きり製の幻灯器を使い、灯火を光源に紙のスクリーンヘ後ろから映す。小さくて軽く、熱くならずに手に持つことができることから、複数の幻灯器を同時に使って多くのキャラクターを別々に動かせるようになった。
 「種板」(スライド)には巧妙なからくりがある。だるまに描かれた手や足を木片で隠しておき、素早く木片をずらす。すると手を生やしたり、足を引っ込めたりしているように見える。石向きのだるまを、一瞬で左向きの絵に入れ替えることもできる。
 「残像」を利用したこうした効果は、アニメーションの一種ともいえる。西洋にも同様の仕掛けはあったが、幻灯器は金属製や巨大な木製で固定式のものが多い。幻灯器自体を動かすという発想がないためキャラクターの動きは限られ、芝居として発展する余地は少なかった。日本では勧進帳や忠臣蔵など歌舞伎や講談に題材を取って独自の進化を遂げ、庶民の娯楽として人気を集めた。「極めて独創的でオーディオビジュアルなパフォーマンス様式」。カリフォルニア大ロサンゼルス校のエルキ・フータモ教授は、映像史の中での日本人の先進性を高く評価している。

20年かけ、写し絵復元 「劇団みんわ座」代表の山形文雄さん

 映画の隆盛で廃れていった写し絵。もともとは影絵を演じていた「劇団みんわ座」代表で、イダさんに写し絵を教えた山形文雄さんは、一九八〇年ごろ、雑誌でその存在を知った。
 文献や研究者に当たり」古い器材を所蔵する個人や教育委員会を訪ね歩いた。
 ガラスで壊れやすい種板は見せてくれることすらまれ。苦労の末に復元し、九九年に明治期の名人といわれた写し絵師の名を継ぎ「平成玉川文楽一座」として披露公演を行った。英国や米国にも巡回し高い評価を得た。一方、大阪芸大の池田光恵教授も「錦影絵」と呼ばれた上方の写し絵の復元を進め、学生とともに風呂と種板を自作。最近は錦影絵の新作上演に取り組んでいる。