創立三十周年記念公演 光のからくり芝居 甦る写し絵の世界

1998年1月27・28日 六本木俳優座劇場
芸術文化振興基金助成事業

アニメーションの技術を先取りして、世界に先駆けて劇を演じた江戸 写し絵。
映像をからくりで捌く写し絵師の妙技が、いま甦る!

スタッフ

演出 ■ 山形文雄
美術 ■ 田中佑子
音響 ■ 伊藤がんめい
照明 ■ 後藤義夫
舞台監督 ■ 桑原睦
舞台監督助手 ■ 嘉数正彦
制作 ■ 山形重和

演目

  • 「千日塚亡者相談」(せんにちづかもうじゃのそうだん)
  • 「小栗判官照手姫 矢取之段」(おぐりはんがんてるてひめ)
  • 「山椒太夫 山別之段」(さんしょうだゆう)

「千日塚亡者相談」

河竹黙阿弥原作 其儘似姿寫繪より潤色

解説

 この脚本は、元治元年(1864)市村座のために書かれたと、大正九年版の「黙阿弥全集」の校訂者は解説している。
 京都で新撰組が池田屋を襲い、英仏米蘭連合艦隊が下関を砲撃した年で、写し絵が人気を博し、最も光彩を放った頃に書かれたものである。
 写し絵の舞台は小さい。灯心の明かりでは、歌舞伎のように大勢の人に見て貰えるだけの光量は得られないからだ。それなのに、あの大黙阿弥が、役者芝居を絡ませての写し絵の脚本を残しているのは、新奇なるものえの旺盛な知的興味の顕れなのだろう。
 写し絵の資料は多くない。浮世絵に舞台が描かれているのもわずかである。それだからこの脚本から窺えるこの時代の写し絵の舞台の様子が、これまた資料的にとても有り難い。

物語

 描かれた絵が、箱の中から飛び出して芝居をするというので、都楽の「写し絵芝居は評判で、押すな押すなと大勢の人が小屋におしかけている。福助の口上から始まって、「光のからくり」を見せる、三番叟、四季の花を咲かせる花物、そして賑やかな獅子舞、という出し物が続いて、いよいよ「千日塚亡者相談」。和尚が寺男にせがまれて、若い日の艶話を語っている。すると昔、和尚と訳ありだったという女性が寺を訪ねてきた。聞くと、十億本土から和尚に会いに来たのだという。拙僧はそなたを存じあげない。和尚が白を切ると、女は忽ち幽霊となって・・・。

出演等

落語 ■ 林家正雀
潤色 ■ 榎本滋民
演出 ■ 山形文雄
美術 ■ 田中佑子 米山直秀 市村泉
音曲 ■ 田中ふゆ
出演 ■ 田中佑子 牧村守倫 嘉数正彦 仲亀達也 高尾寿彦 大畠利恵

「小栗判官照手姫 矢取之段」


物語 (矢取之段にいたる迄の物語)


 小栗判官政清は、三条高倉大納言兼家卿の一子で、文武両道に優れ、都で評判の若者であった。
 ある夜、霧の中から現れた女性に誘われて契りを結んでしまう。その後、都は妖しい天変地異に襲われた。陰陽師が占うと騒ぎの元は政清で、みどろヶ池の大蛇と交わった故で天が怒っているのだという。
 政清は罪を得て常陸の国に流されたが、照手姫と出会い末を誓う。だが、照手姫の親兄弟は政清を嫌い、政清に毒酒を盛り、殺してしまう。
 冥界へ送られた政清は、閻魔大王のはからいでこの世に戻されるが、身は病におかされている。
 政清は土車に乗せられ、旅人の引く供養の綱に引かれて熊野に辿り着き、霊験あらたかな湯泉に入って病は癒される。

物語(矢取之段)  

 病の癒えた政清は、懐かしい家に帰ってきた。だが屋敷では、一年前に死んだ政清の追善供養が行われていた。
 政清は自らの名を名乗るが、父の三条高倉大納言は、狐狸妖怪の類であろうと会おうともしない。
 政清の母は、一目だけでも会って欲しいと、泣いて大納言に取りすがる。
 大納言は政清に、そなたが真の政清ならば、この矢を素手で受け止められる筈と、強弓をぐいと見せる。私が教えた、三条高倉家に伝わる矢取りの秘術を知っていよう。いや、病を癒えたばかりの身ではそれに耐えられません。すわこそ偽物!三条高倉大納言は、きりり、きりりと政清に弓を引き絞った。

出演等

説経節 ■ 若松政太夫
潤色・演出 ■ 山形文雄
美術 ■ 田中佑子
作曲 ■ 増田真幸
写し絵 ■ 仲亀達哉 久川美幸 相原美奈子 奥宮康裕 佐々木卓 稲田朋子 渡部貴与志
パーカッション ■ 桑原睦 高倉岳志 中川順子 平岩啓子 藤井伸也 三沼千晶

「山椒太夫 山別之段」


物語


 岩城の判官正氏は、御門の勘気をこうむり、筑紫の国に流されていた。時がたち、正氏の妻は子供の安寿と厨子王、そして供を連れて、朝廷に赦免を求めるため、都への旅をつづけていた。
 ところが直井の里(直江津)で人商いに騙され、母は蝦夷へ、安寿と厨子王は丹後の国・由良の長者、山椒太夫に売られていった。
 安寿と厨子王はまだ幼い子供だったが、下人(奴隷)として買われたからには厳しい労働がまっている。
 安寿は塩田の潮汲みに、厨子王は潮を焚く柴刈りの、辛い日々をおくっていた。このままでは、父の赦免を朝廷に願い出ることはできない。姉弟が逃げ出す相談をしているところを、運悪く山椒太夫の子供で、冷酷で畏れられていた三郎に見られてしまった。姉弟は額に、山椒太夫の家の焼き印を押されてしまう。下人小屋に戻された二人は、姉がもつお守りの地蔵を額に当てると、ふしぎや激痛は去り、焼き印は小さな痣となっていた。 
 正月明けで山仕事に入った日、安寿は厨子王に、すぐに落ち延びよと強く迫る。安寿は守り地蔵を厨子王に渡し、厨子王を見送って屋敷に戻っていった。弟の行方を聞かれて安寿は、のらりくらりと答えない。とうとう山椒太夫の怒りをかい、哀れ安寿は火責めにあい、命を落としてしまった。
 厨子王は由良の町、国分寺の僧に助けられる。葛籠のなかに身を潜め、宙に吊り上げられたのだが、本堂になだれ込んできた山椒太夫の追っ手達は、揺れ動く葛籠を見つけ、引き下ろして葛籠に手をかけた。
 すると葛籠から光が溢れ、光のなかに地蔵菩薩が姿を現したのだ。

出演等

絵噺 ■ 梅田佳声
潤色・演出 ■ 山形文雄
美術 ■ 田中佑子
音響 ■ 伊藤がんめい
音楽 ■ 嘉数知子
写し絵 ■ 田中佑子 高尾寿彦 相原美奈子 市村泉 奥宮康裕 佐々木卓

みんわ座の三十年

代表 山形文雄

 三十年前、世は大学闘争の激しい時代であった。学生達が道路を封鎖して機動隊と渡り合う側を通り、最初の作品となる絵を画家と打ち合わせにお茶の水に通っていた。それが、影絵芝居団みんわ座の始まりだった。
 学校公演のままならぬ十年を耐え、稽古場ができてから全国を巡回するようになった。写し絵に出会ったのは、二十年ほど前のその頃であった。
 これまで、「雨月物語」など、日本の古典を影絵芝居に作ってきた。古典が読まれなくなった今日、その優れたものを作品にして子供たちに見て貰いたいと思っていたからである。
 「写し絵」は説経節で語られ、演目に優れた古典を作品に持つ。更に、手動で映像を動かす「からくり」の優れた技術を持っている。江戸時代後期に始まったが大正時代に滅び、今は演ずる人がいないという。なんと勿体ないことではないか。
 劇を演じる「写し絵」の絵は、手描きのガラス絵である。割れて欠落している絵が多く、なんとか上演出来るものはないか、博物館にあっても、完全はものは見つからない。
 新潟、首都圏。西は鳥取、松江、倉敷と、探して歩いたが、そのままで上演に耐える作品を見つけることができなかった。
 東京都無形文化財・説経師、二代目若松若太夫師(現 武蔵大掾)の手元に、ほぼ完全に揃う「狐葛の葉 子別之段」があると人伝に聞いた。七年前のことである。
 師と会って包みを開くと、見事な出来映えの種板が現れた。明治初期、優れた浮世絵師と知られた二葉太夫の筆になるものだった。許可を得て復元し、創立二十五周年公演に上演。みんわ座の「写し絵」最初の作品となった。
 これ以降、若太夫師の弟子、政太夫師に説経節を語って貰い、七つの作品を復元した。復元調査の様がNHKテレビニュースで放送された後、多くの情報が寄せられるようになり、調査や復元に協力してくれる方が増えた。とても有り難いことだと思っている。
 だが上演を続ける中で、新たな問題も見えてきた。古典芸能の説経節は、現代の若者に詞章が馴染まない。難しくとも、伝承のままで語って貰うのが良いのか、他の道もあるのか。
 今回、「小栗判官 矢取之段」で初めて説経節の詞章を現代語に近づけてみた。若い人たちにも馴染んで貰いたいからである。
 説経節にパーカッションが入り、リズムを刻む。このような試みの延長線上に整理淘汰があり、写し絵の新しい創造が見えてくるのではないか。しばらくこの道を模索したいと思っている。
 影絵芝居と写し絵。みんわ座の二本柱として、今日がまた、新しい出発の日でもある。

劇団みんわ座創立三十周年記念「江戸 写し絵公演」に期待する

社団法人日本児童演劇協会会長 内木文英

 一九九五年(平成七年)七月二十五日夜、劇団みんわ座の、「写し絵」を見せてもらった。会場は渋谷のジァンジァン、「写し絵、葛の葉ほか一作品」というタイトルがつけられていた。「三味線入りの説経節がおもしろい」と、その日の日記に記されている。暗い劇場の奥に、錦絵のような女人が写り、それが動く。まことにあやしげな雰囲気だが、百九十年前に出来た芸能と知らされて、なるほどと思った。まさにこれは江戸庶民の中から生まれて、庶民に親しまれた芸能だと感じた。終わって外に出たとき、真夏の夜の渋谷の町が目の前に開けていた。現代に生きる若者たちが青春を謳歌する世界と、江戸庶民の生活を重ねて考えさせられた。「写し絵」を現代の世界の中で復元してみせる。その大きな仕事を、みんわ座の皆さんがひたむきに追い求めている。執念と言ったらいいか、意地と言うべきであろうか、そこに人間の永遠の願望がひそんでいるようにも感じられる。
 劇団創立三十周年を記念しての、みんわ座の「江戸 写し絵公演」を期待している。 

期待せずにはいられない

日本児童劇作の会会長 生越嘉治

 「小沢昭巳さんの童話『とべないホタル』を影絵劇に」という話が、みんわ座代表の山形文雄氏からあったのは、たしか一九八九年。その後『とべないホタル』は、ブームといわれるほど多くの子どもに読まれ、次々に続編が書き続けられて、アニメ映画までつくられるが、当時は、まだ世に出たばかりだった。山形氏の発見といってよい。
 わたしも、たしかにホタルは影絵劇ぴったりの素材だと思った。で、夢中になってホタルの生態をしらべたり、資料にあたったりして、光での通信やホタル合戦を取り入れるなど、内心これはと思う脚本ができた。
 しかし・・・、影絵でホタルの光を表現するむずかしさを忘れていた。そういえば今までホタルが主人公の影絵劇など、一つもないではないか。山形氏の挑戦が始まった。
 日航機墜落の御巣鷹山のすぐ下、上野村での合宿稽古は忘れられない。ホタルの光やホタル合戦の映像を出すために知恵をしぼり、深夜まで話し合う。翌朝起きてみると、もう山形氏は、いつのまに作ったのか新しい方式のテストをしているのだった。
 北海道・根室湾に面した別海町での合宿も思い出深い。ここでは、まさに町教委と一体という感じで、おかげでわたしは町教委の方の手料理で、とれたての鮭を心ゆくまで味わわせていただいた。町教委が、みんわ座のサポーターになってくださったのだ。
 昨年は、聾学校の子どもたちに『とべないホタル』を見てもらうために、字幕入りの上演に挑戦し、何回もの試演の結果、小学一年生も感動する上演ができるようになった。
 わたし自身の体験から語れば、みんわ座はいつも課題を見つけだしては挑戦し、新しいものを生み出そうとしている。
 そんなみんわ座が、三十周年記念公演として「写し絵」に取り組むという。またきっと新しい表現が生まれると、期待せずにはいられないのである。

うつし絵今昔

民俗芸能評論家 永井啓夫

 初めてうつし絵を見たときの感激はいまも忘れることができない。油を燃したとぼしい光の中に、空から舞い下りた達磨に手や足が生れ、お囃子に合わせて所作事を演じる。お囃子や口上はもちろん画面の外だが、日本ならではの色彩感が夢幻のように私をとらえる。このとき見た種板のひとつに近江八景があった。ガラス切りもない時代だから、周辺のギザギザな大形のガラス片に狩野派風の筆致で近江八景が描かれている。レンズが固定しているからスクリーンに写るのはそのうちの一景だけだが口上や鳴物に合わせて少しずつガラス板を引くと、パン(移動)して次の景に写ってゆく。
 写し手は微妙にガラス板やフロを動かさねばならないのだから、小林源次郎父娘のような経験者でなければ写すことはむずかしい。その頃はもうカラースライドの便利な機械が出廻っていたが、同一の画面でパンすることはできない。日本のうつし絵の技法が、鳴物や口上を先導して日本の芸になってゆく過程を想像することができた。
 日本の職人芸の極致ともうべきうつし絵が、みんわ座によって再現された画面をはじめて見たときの感激も覚えている。会場も広くなり、電気を光源としながら日本のうつし絵の独創性をすべて生かしている。安心すると同時に私は真にうつし絵を愛する人がみんわ座にいることをうれしく思いながら帰途についた。
 いまでも京都に旅行する日本人は『京都に二千年の日本文化がいまも残っている』と思い込んでいる。しかし京都の伝統はすべて清少納言や藤原定家のようなエリートが作ったものではなく、染織も陶芸も何千・何万という無名の職人芸が作り上げ今日に伝わっていることを忘れてはならない。闇にうかぶうつし絵の画面に私たちは、日本人の持っている底知れぬ美的感覚や伝統の技法を思い知らなければならないのである。

「影」と人間

サントリー美術館学芸員 岡戸敏幸

 人が「影」に見てきたものは、愛しい恋人であり、亡き両親であり、華やかな遊興の記憶であり、恐ろしい物の怪であった。それは、感情の多面体を深く抱えてしまった、人間そのものである。「影」の歴史は、そのまま、人間の歴史であった。かつて私はそう書いたことがある(『影絵』の十九世紀 人は『影』に何を見てきたか、『影絵』の十九世紀展カタログ、サントリー美術館、一九九五年)。その印象は、今日、いよいよ深い。「影」そのものは、もっとも単純な自然現象にすぎず、特別な意味を宿すものではない。そこに豊かな意味を与えたのは、人間の想像力と感情の運動である。「影」をめぐる多様な神話や伝説は、星や虹のそれらとならんで、自然から生まれた文化の本質を象徴するものといってよい。「影」をもたらすのは太陽や月ばかりでない。炎を知り、これを日々の営みのなかに招き入れることで、人はもうひとつの「影の世界」を作り出していった。現実と非現実が溶け合う「あわい」を生みだす「影」の不思議を目の当たりにすることは、深く静かに、忘れがたいイメージを人々の心に刻んだにちがいない。それはやがて、この世ならぬものへと昇華されて、宗教的な儀礼と永く結びついていく。「影」が芸能のなかに取り込まれていったあとも、その基底には原初的な感情が流れてきた。江戸で「写し絵」が流行しはじめるころ、ヨーロッパでは「ファンタスマゴリア」と呼ばれる幻灯の見世物が教会などを舞台に行われていたがそこにも魔術的な関心が潜んでいた。それは江戸でも変わることなく、当時最新の光学機器を応用した「光」の芸能のうちに、古い「影」の記憶が反映している事実を見逃すことはできない。現代は様々な光が溢れ、「影」は人々の生活から失われつつある。けれども、人があるかぎり、「影」は力を失わない。劇団みんわ座「写し絵」公演の一夜、私たちひとりひとりのなかに底深く眠る「影の感情」が揺り動かされ、目を覚ますことだろう。