アニメの元祖「江戸の写し絵・上方の錦影絵」~復元の種板をお披露目~

2006311 東京芸術劇場 小ホ2
主催 米朝事務所・劇団みんわ座
協賛 文化庁メディア芸術祭協賛事業

江戸後期に誕生したアニメの元祖 江戸の写し絵・上方の錦影絵
江戸の分かれから遥かな時空を経て 今二百年を超えての合同公演

出演

桂米朝一門 桂米佐 桂まん我 桂吉坊
写し絵師 平成玉川文楽
説教節政太夫
柳家小太郎
蓼胡与麻
風呂操作 田中佑子 嘉数正彦 相原美奈子 仲亀達哉 木村文美 牧村守倫

スタッフ

製作 山形重和 山形真理子 伊藤博志 若林茂雄 矢向八重子

演目

  • 劇団みんわ座『滑稽だるま夜話』
  • 劇団みんわ座『勧進帳』 説経節による
  • 『日本最古のアニメ映画』上映
  • 桂米朝一門 『四季のいろどり』 落語噺『高尾』より
  • 桂米朝一門 『三番叟』 落語噺『高尾』より

「江戸の写し絵 上方の錦影絵」

文化庁長官 河合隼雄

 江戸時代に始まり、江戸では「写し絵」、上方では「錦影絵」と呼ばれてきたこの芸能は、映像による先進的な表現として当時の人々に受け入れられ、江戸後期から明治にかけて大変な人気を博したそうです。もとはオランダから伝わった幻灯機が、日本人らしい工夫で独自の改良と発展を遂げ、伝統文化と結びついて、ひとつの新しい芸能が誕生したのです。登場人物絵が太夫や噺家の語りに合わせて自在に動く様は、まさにアニメといってよく、映画以前の映像文化として世界的にも画期的なものであったことでしょう。
 文化庁では、毎年2月から3月にかけてメディア芸術祭という催しを開催していますが、昨年のメディア芸術祭では、「アニメの元祖 錦影絵」と題し、東京写真美術館のホールでこの古くて珍しい芸能「錦影絵」の公演を行いました。上方の「錦影絵」は、かつては多くの演者がいたようですが、今では道具や種板もほとんど残っておらず、現役で使われているのは落語家の桂米朝師匠のもとにあるものだけとなってしまいました。また、それを使い演じる人も米朝師匠の御一門だけとなり、上演回数も限られたものとなっており、昨年の初の東京公演は大変貴重な機会でありました。
 一方、江戸の「写し絵」の歴史も、「錦影絵」と同じような道をたどったようですが、これもまた、ほとんどの道具や種板が失われてしまい、今では「みんわ座」の皆さんのみによって演じられるたいへん珍しい芸能となっています。
 その貴重な東西の芸能「写し絵」と「錦影絵」が同時に上演されるのは、これが初めての試みだそうですが、そこにはどのような違いがあるのか、たいへん興味深いものがあります。
 このような貴重な芸能を残していくためには、基礎的な調査と研究が不可欠と思いますが、このたび「錦影絵の伝承に関する調査研究」が行われることになり、それに対し文化庁も支援させていただいています。本日の公演は、その調査研究の一環として行われた復元種板を使って行われるもので、その成果を公表することも目的のひとつとなっています。
 御来場の皆様に「写し絵」と「錦影絵」のすばらしさをご堪能いただき、どうか多くの人たちに語り伝えていただき、知っていただくよう期待しています。そしてこの芸能が、いつまでも現役で生き続けていくことを願ってやみません。

桂米朝一門より

桂 米朝

 明治時代に隆盛だった錦影絵も活動写真に押され、それでも戦前には、雑誌「上方」が主催して公演を手掛けたことがありましたが、戦後は、やってなかったようですね。
 現在、私が所有しているフロ(映写機)と種板は、昭和50年頃、伏見でお住まいの最後の錦影師、山田健三郎さんから譲り受けたものです。一門の桂小米、桂南光が山田さんに教えを乞い、機会があるごとに演じておりました。真っ暗闇の中でフロの移動、種板の入れ替えや仕掛け板の操作、そのうえ、語りまで全部やるんですから大変なことです。その後、吉朝・米左のコンビになり、現在の吉坊・まん我と伝承しております。古い物ですからガラスの種板も傷や絵の剥げが増えるし、マツダランプの電球一つも貴重品です。
 この度、文化庁さんから人材育成と修復・修理の為の助成金を頂戴することになりましたので、まずは『三番叟』のレプリカを作らせていただき、本日お披露目と相成りました。
 今後も一門で「錦影絵」をできるだけ長く伝えて参りたいと存じます。

玉川文楽の技を踏襲して

劇団みんわ座 山形文雄

 劇団みんわ座の「写し絵」は、明治時代初期、名人と謳われた「初代 玉川文楽」、そして跡を継いだ「二代目」の技法を踏襲している。
 初代玉川文楽(薫森利三郎)は、文久元年(1861)、調布、国領に生まれた。
 明治初期、写し絵は人気のある庶民芸能で、利三郎は八王子の写し絵師「玉川文蝶」に入門し、「玉川文楽」の芸名を貰う。文楽は、写し絵を習う前から説経節を語り、「車人形」を演じていたから、芸の心得はある。たちまち関東一円に知られる人気写し絵師になった。
 文楽の芸を引き立たせたのは、種板の絵にも秘密がある。 
 当時、写し絵の種板は、蔵前あたりで製作され、売られていた。文楽はその種板の絵にあきたらず、浮世絵師を自宅に呼び、人に知られぬよう蚊帳を吊ったなかで自ら車人形を抱え、劇的解釈をした絵を描かせた。また、映像の「からくり仕掛け」にも腐心をし、独楽が宙を飛び交う「竹沢一流独楽曲」は、仕掛けの極致と賞賛された。縁あって私は平成11年、新国立劇場で「平成 玉川文楽」の披露公演を行った。
 2001年、「イギリスにおける日本文化紹介年」に参加して、イギリスを3週間巡業した。5都市を巡回、ブライトン映画祭やロンドン大学でも上演し、出会った欧州の研究者から、日本独自の映像技法と絶賛された。要請されて米国やロシア、欧州の映画博物館やマジックランタン博物館に映像資料を多く提供してきた。今はまだ、日本より欧州の研究者のほうから注目されている感がある。

高畑勲氏からのメッセージ

高畑勲
アニメーション映画監督

江戸時代の写し絵を知り、それをはじめ見たとき、心から驚嘆した。十二世紀の絵巻物から現代に至るまで、日本ではマンガ・アニメ的なものが脈々と享受されてきたと私は考えてきたが、これもまた見事な証拠物件だ。舶来の重い幻灯機を、たちまち持ち運び可能な軽くて熱に強い桐箱に作りかえてしまうとは。本家の西洋では誰も考えなかったスゴい工夫。種板操作とあいまって、すばらしい見世物が可能となった。以来、たびたびみんわ座の江戸 写し絵や上方の米朝一門による錦影絵を楽しみ、外国の人にも吹聴している。このたびその合同公演が行われる。胸をときめかせて当日を待たずにはいられない。

『日本最古のアニメフィルムの源流は幻燈にあった』

大阪芸芸術大学非常勤講師
武蔵野美術大学非常勤講師 松本夏樹

 1895年パリでのリュミエールのシネマトグラフ公開後、直ちに欧州の幻燈製造業者達は幻燈前部に間歇装置を加えた、高級玩具としての35ミリ映画映写・幻燈兼用機を製造販売し始めた。だがリュミエールやゴーモンの実写フィルムは高価過ぎてセット販売できない為、幻燈スライドの技法、透過紙に刷った多色石版画をガラス板に貼るか2枚のガラスに挟む方法を応用し、セルロイドフィルムに多色石版刷りしたアニメーション(規格は35ミリ幅、一駒の左右に4個の送り穴いわゆるエディソン・パーフォレムションのカラーアニメフィルム)を製造、ガラススライドと共に兼用機に付けてセット販売した。しかし石版原版の規格上、上映数秒分のものしかできない為、フィルムの始終をつないでループ状とし、当然その内容も繰り返し映写に支障のない単純な動きのアニメ作品であった。
 一方、明治131880)年に文部省の委嘱を受けた鶴淵初蔵が、西洋幻燈とそのスライド(当時は『幻燈映畫』、一般的には写し絵に倣って『種板』と呼ばれた)を製造販売し始め、明治20年代には大小の幻燈業者が小型の家庭用幻燈を作り大いに流行した。
 鶴淵幻燈鋪や、写し絵創始者の都楽以来の風呂や種板の製造元の池田都楽、また舶来幻燈販売の吉澤商店など大手業者のスライドはガラスにポジ写真転写して手彩色したものがほとんどだが、小規模な幻燈業者は写真機器も無く、ガラス板に合羽刷(型紙刷・ステンシル)で墨一色か赤色を加えた二色刷りした安価な種板を販売した。
 明治30(1897)年大阪でシネマトグラフが初公開、続く京都では錦影絵の手法と同じく、水で濡らした映写幕の背後からループフィルムを上映した。その後短い為ループ状にした実写フィルムと映写機を持って横田商会が地方巡業を開始、著作権意識も無く上映済みフィルムを切り売りしたりもした。
 吉澤や鶴淵は既存の幻燈製造工程を利用して国産の映写機やプリントフィルムを販売し始め、活動写真興行師や富裕層が購入したが、この機種もやはり幻燈との兼用機でループフィルムも掛けるようになっていた。
 また当然ながら小規模業者も当初は合羽刷りでアニメフィルムを作ったが、実写フィルムの切り売りや再プリントも野放し状態であった為、ダイレクトプリントのアニメフィルムは直ちに消滅、発見した日本最古のアニメは、正にこうした出自を有しているのである。
 その後大正6(1917)年には劇場公開用国産アニメ、下川凹天作『芋川椋三 玄関番の巻』や翌年の北山清太郎作『太郎の番兵 潜行艇の巻』が製作公開されるが、後者のフィルムなどはやはり公開後切り売りされた玩具映画として現存している。
 大正以後、切り売りや再編集された映画フィルム、またそれ専用に製作された無数のアニメ作品が、幻燈業者や玩具業者から転じた玩具映写機製造者の手からテレビ時代以前の日本の子供達の手に渡ったのである。
 この最古のアニメの少年の畫「活動写真」は写し絵や幻燈から端を発する日本の映像史の、まさに自己紹介である。

豊かなメディア文化の歴史を世界に示す

エルキ・フータモ
Erkki Huhtamo
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)
芸術学部教授(メディア考古学・メディアアート) 
Dept. Design | Meda Arts, UCLA

 一般に、メディア文化は欧米から発して世界の他の地域にもたらされる、という図式が信じられているが、この誤りは正されるべきだ。日本の写し絵・錦影絵は、非西欧文化圏におけるメディア文化の独創性を示す最良の証拠の一つである。日本の伝統的な物語の形式とアジアの影絵の伝統を西欧から伝えられた幻燈の持つ可能性と結びつけて、日本人は、きわめて独創的でオーディオビジュアルなパフォーマンスの様式を創出した。
 東京のみんわ座と大阪の桂米朝一門のアーティストらによるこの伝統の復興は、国内のみならず国際的な文化への重要な貢献である。彩り豊かな過去の陰影は現代のアートとして甦り、今日のデジタル文化にも多くの示唆を与えるだろう。

文化交流としての遊び

タイモン・スクリーチ
Timon Screech
ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(S0AS)教授 
(「大江戸視覚革命」他、著書多数)
SOAS University of London

 遊びは旅する。
 近代の夜明け、航海は数ヶ月も要し、人々は退屈を慰めるものを必要とした。暇な時間の多い船長や士官は、今日のエグゼクティブ・トイとかデスクトップトイに相当するものを船室に持ち込んだ。説明も不要な、こうした分かりやすい遊びの道具は、言葉の壁を越えるための最適なプレゼントとなる。このようにしてヨーロッパから持ち込まれたものが東アジアに到達し、そこに留まり、そして帰途には東アジアの事物がヨーロッパに旅した。
 その結果、私たちはヨーヨーやじゃんけん(英語ではチン・チャン・チョンと呼ぶ)で遊び、あなたがたが写し絵や錦影絵を楽しむ。気軽なおもちゃの交換が、実は国際的な出会いの核心に私たちを導き、互いの文化に魅了される経験を生む。

伝統と最先端技術 - 200年前も、そして今も

早稲田大学文学部教授 草原真知子 (メディア論・メディアアート)

 200年前、オランダ渡りの幻燈は、関東では写し絵という独自の演芸になった。西欧の幻燈はシーン全体を一枚のガラス板に描き、その後、操作の機械化や光源の改良、写真の導入を経て映画へと発展する。仕掛けを隠して亡霊や悪魔を見せた初期ののファンタスマゴリア(魔術幻燈)の雰囲気を継承しつつ、より物語的要素を強め、中世以来民衆の娯楽として親しまれた説経節と結びついたところに江戸 写し絵の特徴がある。浮世絵から切り取ったような人物の軽妙でダイナミックな動きはキャラクター1人を1人の遣い手が動かすことで生まれ、アニメへの連続性を感じさせる。手技とチームワークが写し絵の華だ。
 写し絵と幻燈の対比は、メディア技術と文化の関係を考える上で大きなヒントを与える。実はみんわ座の写し絵再現や海外公演は、コンピュータや新しい素材の利用を自分たちで試みることで可能になり、国際的な評価をもたらした。表現への欲求が独自の現代的改良へと発展した。200年前の創意工夫と、今ここで起こっていること。あたかも一つの円環が姿を現したようにさえ思える。