平成 玉川文楽 復活披露公演

1999年8月12日 新国立劇場小劇場
主催 ■ 劇団みんわ座
共催 ■ 社団法人 日本児童演劇協会
後援 ■ 財団法人 たましん地域文化財団
説経節の会

キリシタン・バテレンの魔術と、江戸庶民を驚嘆させた江戸の華
光のからくりで映像を操作する写し絵芝居

出演


説経節 ■ 若松若太夫
説教節 ■ 薩摩彦太夫
落語 ■ 林家正雀
音曲 ■ 蓼胡与麻社中
語り ■ 生井健夫
琵琶 ■ 水藤五朗 

スタッフ


監修 ■ 永井啓夫
演出 ■ 山形文雄 児玉信(雨月物語)
美術 ■ 片岡昌(雨月物語) 田中佑子
音響 ■ 伊藤がんめい
照明 ■ 渋谷博史
演技指導 ■ 芝綾子 (日高川入相花王)
舞台監督 ■ 嘉数正彦
復元修正 ■ 高尾寿彦 市村泉
彩色 ■ 相原美奈子 桝谷芽虞美
種板製作 ■ 牧村守倫 仲亀達哉 渡辺文彦 渡部貴与志 斉藤允宏 平山優二 小林いおり
企画 ■ 山形重和
制作 ■ 山形真理子 伊藤博志 稲田朋子

演目


  • 「日高川入相花王」(ひだかがわいりあいざくら)
  • 「田能久」(たのきゅう)
  • 「葛の葉 狐子別れの段」(くずのは きつねこわかれのだん)
  • 「花物・光のからくり」
  • 「雨月物語 浅茅が宿」

「玉川文楽」の写し絵


 初代玉川文楽は文久元年に都下、国領で生まれた。家業はまんじゅう屋で、芸人と交流があり、説経節を習い、後に車人形と写し絵を演じた。
 芸人の艦礼を貰うため八王子の玉川文蝶に入門し、玉川文楽名を貰う。写し絵で名声をはせ、多摩近在ばかりでなく広く関東地方からも呼ばれて巡業した。
 二代目玉川文楽は初代の次男で、明治18年の生まれ。父の仕事を手伝うなかで車人形と写し絵を習う。説経節の名手としても知られていた。
 玉川文楽使用の「写し絵」の舞台道具は、調布市の文化財に指定されている。写し絵研究家の小林源次郎氏は、玉川文楽の種板を格別に優れたものと評価し、他に流布する種板と区別して、「玉川文楽の種板」と呼んだ。

「田能久」


元々は、高知県に伝わる民話だったらしい。

 芸事の盛んな阿波は田能村に、久兵衛という男がいて、これが無類の芝居好き。仲間もわいわい集って、田能村の久兵衛を縮めて、「田能久一座」を作ってしまった。この一座の芝居が面白いと近辺の評判を呼んでいると、伊予の宇和島からきて欲しいと依頼がきた。座員も喜んで行こうと賛成したものだから、久兵衛 が反対するわけがない。宇和島で興行していると、母親が病気ですぐに帰れと家から使いがきた。親孝行の久兵衛は、仲間に後を託して家に帰る山中で夜になり、誰もいない小屋に泊まると、しばらくして白髪の老人がすっと立っている。わしはウワバミだ。お前は誰だ、名を名乗れ、という。田能久ですと答えると、ウワバミは聞き違えて、なんだ狸か。狸なら八化けできるだろ、やって見せろ。化けぬなら、お前を人間とみなして呑んでやる。田能久はとっさに芝居に使う鬘(かつら)を被って、小僧やお姫さまにと変身する。ウワバミは喜んで、田能久に好きなものと嫌いなものを聞く。田能久が嫌いなものは小判です、と答えると、おれの嫌いなものは、たばこの脂と柿渋だとウワバミは云って、母親の病気が治ったら尋ねてこいと、姿を消した。震えて麓へ降りてきた田能久から、ウワバミの話をきいて村人は、小屋のありかを聞いて、たばこの脂と柿渋を集め、ウワバミ退治に乗り出した。命からがら逃げ出したウワバミは、あのおしゃべりの田能久たぬきが、おれの嫌いなものを村人のしゃべったに違いない。田能久の家を探しあてたウワバミは、お前も苦しめ!と、田能久に投げつけたのは・・・。

「葛の葉 子別の段」


竹田出雲の書いた五段物で、「芦屋道満大内鑑」が本来の題名だが、今では四段目の「葛の葉 子別れ」だけで演じられる事が多く、「葛の葉」が俗称となった。

 天に異変が起こり、朝廷は阿倍保名と芦屋道満にそれの意味を解くように命じる。そのため二人は、師の残した天文の秘伝書「金烏玉兎集」を手に入れようと争う。師の娘「榊の前」は保名の恋人で、保名に秘伝書が伝授されるよう祈るが、芦屋道満方の悪計にはまり自殺する。保名は気が狂い、榊の前の面影をもとめて信田の杜にやってきた時に榊の前と瓜二つの女性を見、正気に戻る。女性は榊の前の妹「葛の葉姫」で、将来を誓って別れる。そこに芦屋道満側の石川悪右衛門に追われてきた白狐を保名は助けるが、戻ってきた葛の葉と暮らし、男の子が生まれた。六年たって葛の葉姫が訪ねてきた。保名と暮らしていたのは、命を助けられ、その恩に報いようとした白狐の化身だった。
 「恋しくは尋ねきてみよ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」・・と四段目の幕が上がる。

雨月物語と秋成


秋成は、亨保19年(1734)、大阪に生まれ、小説家、歌人、国学者として活躍し、時には医者としても務め、文化6年、京都で没した。

 田沼時代、経済の繁栄で大阪では町人文化が発展し、その気風のなかで中国の文化や、南蛮文化がもてはやされた。
 雨月物語はこうした時代風潮の中で描かれた。この小説は、中国の怪奇小説「剪燈新話」や「今昔物語」の影響を受けて成り立った物語であるが、原典がもつ怪奇性に留まらず、人間の性を深く見つめる近代性を見ることができる。
 下総に、勝四郎と宮木の若い夫婦がいた。勝四郎の代に家は急速に衰えた。一旗揚げようと勝四郎は、宮木を説き伏せ、絹を持って都にのぼっていった。商いは上手くいったが帰路に追い剥ぎに銭を盗られ、あまつさえ、下総で動乱が起こり、争乱を逃れて今では誰も住む者がいない荒野になったと馬子に知らされる。関所もでき、往来も止められていると聞いて勝四郎は、宮木も死んだものと思い、下総に帰ることを諦め、京の町に戻って暮らすようになった。
 7年後、こんどは応仁の乱によって都が騒ぎになり、追われるように勝四郎は下総に帰って来た。破れた家に灯りが見える。宮木がいる。
 感動して出会った夫婦だったが翌朝、勝四郎は草むらのなかで目が覚め、近くに立つ卒塔婆に、宮木の名を見るのだった。
 宮木は霊となっも、ひたすらに勝四郎を待っていた。宮木は勝四郎に呪詛もなく、責めもない。故に勝四郎は、己の愚行に慟哭するよりないのである。
 戦乱がもたらす悲劇を語らずに、より深く心情に訴えてくるこの物語は、怪奇と幻想と、清冽な愛で永遠の名作になっている。

玉川文楽と種板 平成玉川文楽披露公演にあたり


平成玉川文楽

 「玉川文楽」の名を知ったのは二十年前だった。写し絵の展示をアサヒペンタックスギャラリーに見に行くと、管理者は絵を動かす種板のからくりを見せ、写し絵についてはこの本に詳しいですと、ガリ版刷りの本を見せてくれた。幻灯で四季の景色をうつす絵に、「うつしゑ」の文字が白く浮かびあがる表紙だった。著者、小林源次郎。頁をめくると、写し絵の構造と仕掛け、江戸時代に始まり、昭和にいたる写し絵師が紹介されており、その中で大きな頁を割かれていたのが、初代、二代と続く「玉川文楽」だった。
 「うつしゑ」を読むと、初代文楽は、車人形の名手として知られていた。流行の写し絵を始めたが、演技を知る彼には、物語に沿って綺麗な絵が並ぶだけの市販の「種板」にあきたらず、絵師を雇い、自ら車人形でポーズを取り、人に見られぬよう蚊帳のなかで文楽独自の「劇絵」を描かせた。舞台に掛けられるや、評判を呼んだのはいうまでもない。
 二代目は小火騒ぎの時、消防の放水を止めさせて「種板」を運び出した。百年以上も前に描かれた「玉川文楽」の種板は、このように創られ、守られ、秘められた逸話に彩られて今に伝えられる。
 私たちは文楽の種板を見せて欲しいと文楽の子孫に要請したが断られ、最初に目にしたのは、その存在を知ってから十六年後だった。
 種板はガラスで衝撃に弱く、ましてや手描きの劇絵である。一枚欠けても、芝居に差し障る。家族にも触れさせなかったものだから、私たちに開かれないのは当然だったろう。
 私たちは、青梅や奥多摩、大阪や山陰と調査を続けていた。そして長い時をへて、今では全面的に復元と上演に協力を頂くようになった文楽の家族・薫森宏氏と、小林源次郎氏の調査と上演をサポートしてこられた、氏の息女・芝綾子氏には、最大限の礼を述べても述べ切れぬ恩を蒙っている。
 この先、文楽の種板を復元し、「平成玉川文楽」の名で上演を続けることになった。小林源次郎氏も未調査の種板が、まだまだあると聞く。どんな絵が見つかり、どんな劇を演じる事になるか。楽しみと緊張の日が今日から始まる。
 ご支援を、こころよりお願いする次第です。

みんわ座の「写し絵」に期待する


(社)日本児童演劇協会会長 内木文英

 みんわ座の写し絵「日高川」「葛の葉」などを、渋谷ジャンジャンで観せてもらってから、もう何年も日にちが経ったように思う。うす暗がりの中に、クラッシックな日本女性が浮かび上がり、静止の画像であろうと思っていると、それが動くのだ。三味線に乗って説教節が唄われる。百年以上さかのぼった世界に生きているような、妖しげな非現実の世界を実感していた。迂闊と言えば迂闊な話だが、映画以前の日本に、「写し絵」のような、これほど豊かな表現が存在することを私は知らなかった。
 映画が普及していくにつれて、世の中からこの「写し絵」は消えていったようだが、美しい影絵人形劇を創って評判の高い「みんわ座」が、この「写し絵」の復元にこだわって、明治の初めから「写し絵」の名人とうたわれた初代玉川文楽、二代目玉川文楽の業績を復活、国立小劇場で上演するという。意気さかんなことだ。今回は劇団仲間の生井健夫、松野方子に参加してもらって、「雨月物語・浅茅が宿」を創ったり、林家正雀に語らせて落語の「田能久」を演ずるという。「写し絵」に打ち込んでいる「みんわ座」の姿勢が尋常ない。その意欲が、今までよりもっとふくらみのある、常識を超えた表現を生むのではないか。そんな「みんわ座」の今度の公演を期待している。

うつし絵の魅力


演劇評論家 永井啓夫
元・日本大学院芸術学部教授
「三遊亭円朝」「市川小団次」
古典芸能に関する研究評論多数

 新芸術として映画を評価する日本人が、昔ながらのうつし絵を説明しないのはどういう訳だろうか。そういう私自身、森田好学氏や小林源次郎氏のお話で目を覚まされた。はじめて森田好学氏の練馬・大泉のお家で近江八景のタネ板を見せて戴いたときの感動を忘れることができない。
 あの時のタネ板は、いま大宮市の埼玉博物館にある。ガラス切りのない時代だから周囲はギザギザだが絵は狩野派風の本格で、写すと瀬田の唐橋から左に移動し、いまの映画やテレビの専門語ならパンするというのだろうが、第二景の石山の秋の月に代わる。
 森田氏は、昔の芸人の口上ならここで調子を変えて聴き所を作ったのでしょうがと笑っていた。橋上人物から石山寺の会話に移ることも可能だし、さらに水音・風音などの効果を考えれば、大勢の人数が必要だったろう。しかし、うつし絵で働く人はなるべく観客の目にふれぬように注意し、黒衣に身を包むなど細心の注意を重ねた。うつし絵を観客に見てもらうために、扱う人間が姿を見せないことが効果を持つことを知っていたからである。だから、うつし絵で働く人は映像が目的で、自己は犠牲にする、最も大事な人たちで、うつし絵がこういう人たちによって守られ、作られてきた歴史を証明している。
 その頃、私たちはアメリカ式のスイッチ一つでタネ板が代わるカラースライドに夢中だった。スイッチ一つで、前にも後ろにも場面を変えることができる。しかし、同じ画面のなかでパンすることが出来なかった。私はこの点だけで日本のうつし絵の方が、よりアニメ的だと思っている。その優秀性に気づかなかったのは日本人だけだった。森田好学氏は間もなく亡くなったが、そんなこともあってあの時丁寧にうつし絵の仕組みを私に教えてくれたのではないかと思っている。それにしても昔のひとはえらかった。日本の大衆絵がいつ始まったか私には知らない。しかし江戸時代の絵はキツネでもタヌキでも、人間と同じように生活している。江戸の底知れぬ闇の中で人間も動物も働いていて、それが生き物の命の鼓動を私たちに伝えてくれる。うつし絵が闇を利用した芸術だからである。

眼鏡(レンズ)の内と外の絵たのしみ


西角井正大
実践女子大学教授 元国立劇場芸能部長
民俗芸能に関する著書多数

 現代人は夜も電光の明かりに馴らされてしまっているので真暗闇ということに思いが行かない。今夜、平成玉川文楽師こと旧友のみんわ座の山形文雄氏が演じて見せる「写し絵」というものはもとは幕末とはいえ夜の世の中は真暗という頃のものだった。
 丁度二百年前頃上野の小屋で阿蘭陀エキマン鏡という幻灯の見せ物が掛かり、これをヒントに亀屋都楽を名乗った男が日本式幻灯「写し絵」なるものを開発し興業を始めた。二寸角ほどの薄い板ガラスに絵を描いた種板を油小皿に芯八本の燈明の明かりを光源として眼鏡(レンズ)を通して大きな和紙の幕に写し出すのである。道具は風呂と名付けた桐箱製の幻灯器で、種板を数枚仕込んだスライド式にしたり、レンズにシャッター式の蓋を設けたりと工夫して絵が動き絵芝居さえ出来るようになった。今日の動画や劇画の感覚に近かろう。桐材だから軽くて火に強い。手に持っていろいろ使えた。世界初のシネマスコープといわれる所以である。照度的には高が知れているが、当時はキリシタンの妖術かと驚きだった。玉川文楽と両川亭船遊が名高く、「其侭姿写絵」という歌舞伎がつくられるくらい写し絵は人気があった。両国隅田川の舟遊客相手に写し絵舟も出たが、見惚れている客を狙う川掏獏がいたほどだから川面は随分暗かったろう。
 写し絵はレンズを通して中のものを覗き込むというのもある。「覗きからくり」である。文献的所見は写し絵より百十六年も前の江戸中期初頭に遡る。近松の「冥土の飛脚」にものぞきからくりの語があるが、レンズの有無は不詳で、はっきりするのはエキマン鏡より十年後の文化年間である。見せる絵は遠近誇張の透視画法の「眼鏡絵」でレンズを通して大きく迫って見え、長く人気を保った。

御慶


竹田扇之助
東京都文化功労者
ウニマ (国際人形劇連盟) 日本センター会長
竹田人形座主催世界ウニマ執行委員
竹田扇之助記念国際糸操り人形館館長

 新橋で″金春の妃殿下″と慕われた、清元延古摩師は、明治廿(一八八七)年生まれ、親代々歌舞伎座の向いに暮し、当時の舞台がいかに天真爛漫と性を演じていたかを、江戸前の鼻にかゝる清元の語り口と共に、震えて伺ったものだった。
 九代目結城孫三郎師は、官憲の目を逃がれ、隅田川の屋形船で「しばや」以上の娯しみを「写し絵」で演じていたそうで、後に、東宝の小林一三翁に目をかけられ、日比谷の有楽座で度々上演した「番町皿屋敷」。菊の血が階段を流れ落る様子を想出すと、今でも身の毛がよだつと、師匠の横で子供の頃より風呂を手伝い続けた、父・竹田三之助が何回も話してくれた。この写し絵の道具は、人形等とともに竹田人形座が長く活動した、足立区・六月の親戚の家に一切疎開され、B29の直撃を受けすべてが灰に帰した。
 昭和四一(一九六六)年、小林源次郎氏演じる写し絵を、赤坂・アマンドで拝見、すっかりその虜となった。この事を知り、缶父・安藤鶴夫が、小林氏との中に入り、総ての道具・技を、私に渡して下さるというところ迄話しが進んだが、私共が、舞台・TV・映画と多忙を極めることになり、残念ながら実ることがなかった。果し得なかった私の夢。平成・玉川文楽の名にそぐわしく、掛替のない遺産を換骨脱胎し、暉映の舞台を創り出して頂くことを念じ、祝詞とさせて頂きます。
 平成十一年 葉月 吉日

宇野小四郎氏からのメッセージ


宇野小四郎
(財)現代人形劇センター顧問
国際人形劇連盟 アジア・オセアニア委員
「生きている伝統人形劇芝居」「日本のからくり人形」「近松劇への招待」他
伝統人形劇研究に関する著書多数

 ヨーロッパの自動人形は、自動ということを基調に、機械工学の成果に合わせて発展するが、これが日本にはいってくると、機械による単調な繰り返しに飽き足らず、見えないところで人手をかけて複雑な動きを与え、玩具から見せ物へ芸能化していった。自動という観点から見ればインチキに属するが、日本独自のからくり文化が生まれたのである。
 江戸時代の中頃ヨーロッパから幻灯器が輸入されると、このレンズや光源を改良してより精度の高い幻灯器を作るという方向にはすすまなかった。こいつを利用して何か面白いことができないかと考えたのである。それが「写し絵」であった。手練の技と人手をかけて、単調な幻灯の画面を演劇のジャンルにまで仕上げた道筋は、やはりヨーロッパから入って来た遠近画法を、覗きからくりという芸能に展開させたのと同じ発想である。文化を体系的に積み上げて行くことは苦手だが、水平思考的に展開させるのは、日本人の得意とするところであった。この写し絵を見ても実によく工夫が重ねられていて、それが現在のアニメ文化にも繋がるものであることは多くの方から指摘されている。そしてこの手法、表現は単に過去の芸能ではなく、現代演劇のジャンルとして発展の可能性が十分にあり、それを証明したのが、山形文雄さん始めみんわ座の皆さんによる二十年来の、研究と創造的努力の成果であると思う。この度、この調査研究の過程で関わりをもった、写し絵の名門玉川文楽の座名を引き継いだことは、伝統の継承と新たな発展の礎として大いに祝いたい。

写し絵 忘れられた日本の映像文化が、今、甦る


エルキ・フータモ (Erkki Huhtamo)
メディア論・映像史研究・キュレーター
フィンランド国立ロヴァニエミ大学客員教授
メディア研究者・評論家
カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校デザイン学科客員教授
世界各地で講演を多数行う。
メディア史及びメディアアートに関する多くの著作は、
世界10ヶ国に翻訳されている。

 映像の上映や、プロジェクターでビデオを見るのは、われわれにとって日常的な経験だが、こうした上映装置は、マジック・ランタン(幻灯)と呼ばれた装置から発展した。
 幻灯のくわしい歴史が人々から忘れられてから久しいが、マジック・ランタンという言葉は今もよく耳にする。映画監督イングマル・ベルイマンは、その回顧録を「マジック・ランタン」と題した。欧米において、自分達の文化圏のマジック・ランタンの歴史でさえ知らない人が多いのだから、まして、異なる文化圏、たとえば日本ではどうだったのか。そもそも、日本にマジック・ランタンは存在したのか?
  先日の日本訪問で、その答えを見つけることができた。東京都写真美術館で、日本の幻灯機と種板の素晴らしい展示を見ただけではない。実に幸運にも、めったに見ることのできない「写し絵」の上演を見る機会を得たのだ。
 中野駅の近くの小劇場に座って、私は、文化の相互作用について考えていた。「写し絵」の場合、たしかに、西欧のマジック・ランタンが基になっているし、似ている部分もあるのだが、しかし、結果としては、西欧のものとはまったく違った、日本独自の文化になっている。
 写し絵の特色は、なんといっても、それが物語のひとつの形式だということにある。伝統的な物語が、本当の意味でマルチメディアな形式で—つまり、映像と音楽の演奏と語りの総合的なパフォーマンスという形で、上演されていたのだ。
 中野で見たのは、この伝統的な形式による上演だった。最初に、そして場合に応じて、司会進行役をつとめる人物が舞台に登場する。一方、舞台の反対側の袖には、謡と楽器を担当する2人の音楽家が座っている。舞台の中央には和紙でできたスクリーンがあって、舞台の周囲は華やかで装飾的な縁取りがされている。しかし観客が注目するのは、スクリーンの背後から映写される映像だ。日本語で語られるストーリーが理解できないこともあって、私の関心は、映像の驚異的にダイナミックな変化に集中した。達磨の手足は自在に伸び縮みする。別の演目では、恋人に捨てられた美しい娘が、竜に変身して泳ぐ。それだけではなく、日差しの変化なども含めた微妙な映像効果が使われている。全体として、映像の変化はスムーズかつ自在で、まるでスクリーンに光で絵を描いているようだ。
 たしかに写し絵は、西欧の幻灯ショー、特に、18世紀から19世紀初頭に人気があったファンタスマゴリアに、似ている。ファンタスマゴリアと同じように、幻灯機はスクリーンの背後に隠されて「魔術的な」幻影を可能にする。幻灯機を動かせるのも共通で、ファンタスマゴリアでは台に車輪がついているし、写し絵では、演者が手に持って動き回る。
 しかし、だからといって、写し絵が西欧のファンタスマゴリアの日本的な翻案だと見なしたら、それは誤りだ。明らかに、写し絵には、アジア独自の豊かな映像文化、特に、アジアで生まれ、発展した影絵の伝統が反映している。そういう意味で、写し絵は、きわめて日本的な特色を持った、文化の混合の所産であるとも言える。歴史の産物であると同時に、まさにマルチメディアな体験・・・メディア史の見直しが世界的に進んでいる今、写し絵を西欧に改めて紹介する必要を感じている。

ヘナロ・メレンドレス氏からのメッセージ


ヘナロ・メレンドレス
スペイン出身
日本の水産大学で学び、
今はイタリア・トリノ市の影絵芝居の劇団で美術を担当し、演技者でもある。

 トリノに帰りましてから、劇団コントルーチェの仲間達にも、いただいた資料を見せ、 日本の伝統芸術としての写し絵を残していこうとする皆様の活動について説明しました。みなも大変興味を示しております。
 コントロルーチェは、トリノの国立映画博物館と協力関係にありますが、この博物館はマジック・ランタンと色ガラスについては世界有数のコレクションを有しています。
 現在この博物館のための新しい移転先が準備中で、2年ほど先に見込まれている移転を機に、博物館としての活動を更に積極的に広げていくものと思われます。そのような折りを捉えて、皆様の写し絵の公演を提案し、日本におけるマジック・ランタンの導入、発展、独自の技術と特性そしてその保存・存続について紹介することができれば大変面白いと思います。

写し絵と幻燈 平成玉川文楽披露公演を祝って


岩本憲児
早稲田大学教授 映画史・映画理論
「映画理論集成」 「日本映画とモダニズム・1920-30」他
映画に関する著書多数

 西洋でラテルナ・マギカ(魔法のランタン)と呼ばれた幻燈装置は、十七世紀後半以来多くの人々によって工夫と改良が重ねられた。幻燈は映画誕生期まで、宗教・人生訓・道徳などを教える教育的装置として、あるいは童話や恐怖譚など、娯楽的装置として社会から家庭まで大きな広がりを見せていったのである。日本の写し絵もオランダ渡来の幻燈に由来するが、きわめて日本的特質を担った見せ物=芸能となった。見せ物としては大阪が早く、「影絵目鑑」(かげえめがね)と呼ばれて人気を呼んだ。江戸で写し絵興行が始まる一八〇三年より二十五年ほど早い。このような日本の写し絵史については、小林源次郎氏の『写し絵』(一九八七)や山本慶一氏の『江戸の影絵遊び』(一九八八)などをとおして知ることができる。明治七年にはもう一度、手島精一氏によって西洋幻燈が入ってくるが、これは文明開化期と重なって、より教育的側面が強調されて流行した。したがって江戸期からの写し絵は芸能的役割を、明治期以降の西洋幻燈は教育的役割をと、役割を分担しつつ、明治・大正期には二つの幻燈様式が共存していたことになる。その後、写し絵を日常的に見る機会が失われて久しい。
 劇団みんわ座の山形文雄さんは、写し絵の復元上演に情熱を傾けてこられた。私も何度か楽しく拝見したことがある。そしてこのたび山形さんは、明治期に調布で写し絵を始めた玉川文楽の名を以て上演を始めるという。消えかけていた写し絵の伝統が甦り、新しい工夫を入れながら継承されるのを大いに慶び、祝いたい。

幻灯、うつし絵、アニメ


三木宮彦
映画評論家

 世界最初の、しかも最高に洗練されたアニメーションとして、世界はいま「江戸うつし絵」に熱い視線をそそぎ始めている。
 動かない「絵」を自由自在に動かしたいという人間の欲求が生んだのが、アニメ映画である。しかしその前の段階として、ルネッサンス時代に板ガラスとレンズが安く多量にできるようになると、やがてランプの発明とともに幻灯機が世に現れた。
 幻灯機は、つぎつぎと改良が進み、十九世紀には絵の一部分が動かせるようになり、また急速に絵を替えていって残像による運動の印象を与えることもできるようになった。けれども全体としては単純な短い動きに限られていた。
 うつし絵も、レンズや種板用板ガラスはもともとオランダからの輸入品だし、原理は幻灯にあるのは間違いない。だが、フロ(幻灯機)をポータブルにし、映写はスクリーンの裏側からするようにした点が天才的な違いを生んだ。これで、複数の演者が複数のフロを観客を邪魔せず自由自在に移動させることができ、映像をわざとボカシたりゆがませたりする効果も簡単に得られるようになった。こうして完成した表現力ゆたかな演芸は、想像力を刺激し未来のための創造性にも富む、独自のメディアでもある。
 今回のような上演には、単なる懐古趣味でなく、「新しきを創るために古きを知る」場として何度でもおはこびをと口上左様。

世界の映像史の1ページに写し絵を


草原真知子
メディア研究者、メディアアート・キュレータ
神戸大学助教授
CG、デジタル映像、マルチメディアの分野で評論、著書が多い。
つくば科学万博、名古屋デザイン博等の企画展示に関わる。
文化庁メディア芸術祭企画・審査委員

 一八九五年に映画が誕生してから一世紀が経ち、われわれは今や、バーチャルリアリティやサイバースペースといった新たな映像空間・イマジネーションの空間に取り囲まれている。そうした中で、幻灯やファンタスマゴリア、覗きからくり、パノラマ館、立体写真などの映画以前の映像装置について、映像の歴史を問い直す動きが進んでいる。
 しかし、そうした研究はほとんどヨーロッパの映像前史に限られ、フランスの美術館などが刊行した少なからぬ書籍の中に、写し絵は登場しない。写し絵と多くの共通点を持つファンタスマゴリアを知らない映像史研究者はいないのだが。ことは映像に限らず、たとえば自動人形や自動機械(オートマタ)に関する海外の研究書に、茶を運んだり弓を射る日本の精巧なからくり人形が触れられることは滅多にない。だが、これはわれわれ自身の問題のようにも思える。
 歌舞伎や文楽、茶道といった伝統の世界と、ゲームやロボットものアニメを世界に輸出し、映像が町なかに溢れかえる国としての日本。その断絶を本来、埋めるものとして、写し絵やからくりのような大衆エンターテイメントがあったのだ。日本人がどのように伝統的な文化と新しいメディアテクノロジーを融合させてきたのか、われわれはもっと知り、そして知らせていく必要がある。それは、日本の文化的創造性の再発見につながると同時に、人間の文化史に共有の資産をもたらすことでもあるだろう。
 そのような視点から文化庁のウェブサイトに写し絵の展示を構成したので、ぜひ見ていただきたい。

芝綾子氏からのメッセージ


芝綾子
父、小林源次郎氏の写し絵調査に同行し、
資料の整理、分類をするなかで
写し絵が終焉に際した時期を最も深く知る。
芝氏から提供される情報が、
みんわ座の写し絵復元に大きな力となっている。

 「写絵」が滅んだ最大の理由は、種板を作るのは非常に難しい技術と作業、時間、費用がゝかる割に一度に大勢の人に見せられない。一枚の絵が破損した丈で上演不可能にさえなる場合もある。暗闇の中での操作も大変なこと。映画、アニメ、CG等と比べ動きに乏しい、ギゴチない等々マイナス面があまりにも多いのにも拘らず敢えてそれに取組もうとする山形さんの熱意に動かされて、及ばず乍らも私の出来る範囲での協力、又玉川文楽の子孫の方への協力依頼と言う段取りを経て、此度玉川文楽使用の種板を主に、なる丈昔通りに演じる写絵の劇団「平成玉川文楽一座」として旗揚げ公演に迄漕ぎ付けられたのは、玉川文楽の子孫の方の協力と山形さん始め劇団の皆さんの熱意と努力による賜物です。
 写絵位ピンからキリ迄差のある物も珍しいと思いますが、現存する物の中でピンに相当する玉川文楽の種板を複製し皆様のお目にかける事になりますが、今日そうした事が出来ましたのは二代目文楽さんとその家族の皆さんの並々ならぬ努力があったからで、写絵の道具一切が収められていた離れがもらい火で火事になった時、商売物の高価な釣竿が仕入れてあり、それに火が付きそうになったのに目もくれず、家族総出で「(昭和二十六年当時まだ文化財に指定されていなかった)この道具をおしゃかにしたら小林さんが研究出来なくなる」と運び出して下さった事、色々言って来る人のわずらわしさにも耐えて分散散逸させなかった事、実演のアテは無いのに時々虫干しをし傷んだ処をキチンと修理して大切に保管して来て下さったからで、その事に対して深い感謝の念を禁じ得ません。